今回はドイツ刑法175条について、その歴史と影響をわかりやすく紹介していきます!
ドイツ刑法175条(§175 StGB)は1871年から1994年までの約120年間、男性同士の性行為を処罰し続けたドイツの刑法規定。
ナチス時代に厳罰化されて約1万人もの男性が強制収容所へ送られ、戦後の西ドイツでも約40年以上残り続けた、まさに「20世紀最長の悪法」のひとつとして知られています。
そして驚くべきことに、ドイツ政府が戦後の有罪判決を正式に無効化したのは、つい最近の2017年なんですよね。
■この記事でわかること
- ドイツ刑法175条の正式な内容と対象
- 1871年から1994年までの全歴史を年表で
- ナチス期の迫害とピンクトライアングルの実態
- なぜ戦後の西ドイツでも残ったのか
- 2017年の判決無効化と補償法の中身
- もっと深く学びたい人向けの映画・書籍ガイド
それでは詳しく見ていきましょう。
ドイツ刑法175条とは?一言でわかる基本情報
まず最初に、ドイツ刑法175条がどんな法律だったのかを最短で押さえておきましょう。
ひとことで言うと、男性間の性行為を犯罪として処罰したドイツの刑法規定です。
正直、ここまで長く残った法律だとは知らなかった、という人がほとんどなんじゃないでしょうか。
刑法175条の正式名称と条文の意味
正式名称は「§175 StGB(ドイツ刑法典第175条)」で、英語圏では「パラグラフ175(Paragraph 175)」と呼ばれています。
制定当初の条文では、男性同士の性行為や動物との性行為を「反自然的な淫行(widernatürliche Unzucht)」として禁じ、違反した場合は禁錮刑と公民権の停止が科されると定められていました。
「反自然的な淫行」って、いま読むとものすごく差別的な表現ですよね。
でもこの言葉が、約120年間にわたって本当に法律の文言として機能していたんです。
対象となった行為と人々
ここで一つ、多くの人が疑問に思うポイントがあります。
それは「なぜ女性同士の同性愛は対象じゃなかったのか?」という点です。
実は刑法175条はその条文上、男性間の性行為のみを処罰対象としていて、女性同士の関係は含まれていませんでした。
これは19世紀のドイツで「女性には能動的な性欲がない」とする偏見が広く共有されていたためで、レズビアンの存在が社会的に「想定されていなかった」と言われています。
差別から逃れていたわけではなく、そもそも視界に入っていなかった、という点がなんとも複雑なんですよね。
基本データ早見表
ドイツ刑法175条の基本情報を表にまとめてみました。
| 項目 | 内容 |
|---|---|
| 正式名称 | §175 StGB(ドイツ刑法典第175条) |
| 制定 | 1871年5月15日 |
| 施行開始 | 1872年1月1日 |
| 対象 | 男性間の性行為(および動物との性行為) |
| ナチスによる厳罰化 | 1935年9月1日(175a条追加) |
| 東ドイツでの175条削除 | 1968年(新刑法採択) |
| 東ドイツでの後継条文(§151)廃止 | 1988年(施行は1989年5月30日) |
| 西ドイツでの大改正 | 1969年・1973年 |
| 西ドイツでの最終撤廃 | 1994年3月10日 |
| 有罪判決を受けた男性の総数 | 約14万人 |
| ナチス期の補償決定 | 2002年 |
| 戦後判決の無効化・補償 | 2017年 |
数字で並べてみると、その重さが一気に伝わってくるんじゃないでしょうか。
特に「14万人」という数字、これはドイツ国民全体の話ではなく、たった一つの条文によって有罪判決を受けた人の数なんですよね。
ドイツ刑法175条の歴史を年表でわかりやすく解説
さて、ここからはドイツ刑法175条がたどった120年の歩みを、時代の節目ごとに見ていきます。
「ナチスが作った法律」という誤解を持っている人も多いんですが、実はそれよりずっと前から存在していたんです。
1871年|ドイツ帝国成立とともに制定された背景
ドイツ刑法175条が制定されたのは、ドイツ帝国が成立した1871年5月15日のことです。
それまでドイツ語圏は多数の領邦に分かれていて、同性愛の扱いも地域によってバラバラでした。
たとえばナポレオンの影響を受けたバイエルンなどでは同性愛行為そのものは処罰されていなかったのに、プロイセンでは厳しく処罰されていたんですよね。
ドイツ統一にあたって刑法を一本化する際、結果的にプロイセンの厳しいルールが採用された、というのが175条誕生の背景です。
つまりこの法律は、最初から「ナチスの発明」なんかではなかったんです。
1897年|マグヌス・ヒルシュフェルトによる廃止運動の始まり
制定からわずか26年後の1897年、ベルリンの医師で性科学者のマグヌス・ヒルシュフェルトが、175条の廃止を目指して「科学的人道主義委員会(WhK)」を設立しました。
これは現在「世界初のLGBTQ権利擁護団体」とも言われている組織なんです。
委員会が掲げた標語は「科学を通じての正義」というもので、同性愛を病気や犯罪としてではなく、ありのままの人間の姿として理解しようという立場でした。
ヒルシュフェルトたちが集めた廃止請願書には、なんとアインシュタイン、トーマス・マン、ヘルマン・ヘッセ、リルケといった当時を代表する知識人が名前を連ねていたんですよね。
これって、すごく意外じゃないですか?
100年以上前のドイツに、すでに本格的なLGBTQ権利運動が存在していたという事実は、もっと知られていいと思うんです。
1935年|ナチスによる厳罰化と175a条の追加
1933年にナチスが政権を握ると、175条は一気に強化されていきます。
1935年9月1日、ナチスは175条を改正して、それまで「性交類似行為」のみだった処罰対象を、あらゆる「みだらな行為」にまで拡大しました。
噂話やしぐさ、視線まで「証拠」として扱われるようになったとも言われていて、もはや法律というより密告と摘発のための装置だったんです。
さらに同時に追加された175a条では、「混み入った事件」に対して1年から10年の懲役という重い刑罰が定められました。
ここから、後述するピンクトライアングルと強制収容所の悲劇が始まっていきます。
1945〜1969年|戦後西ドイツでも継続施行された「もう一つの悲劇」
ここが、多くの日本人読者が見落としがちなポイントなんです。
第二次世界大戦が終わってナチス体制が崩壊した後も、西ドイツ(ドイツ連邦共和国)はナチス時代の175条と175a条をそのまま受け継いで使い続けました。
ナチスが残した数ある法律の中で、これだけが「そのままの厳しさで」生き残ってしまったんです。
しかも1957年には、西ドイツの連邦憲法裁判所が「175条はナチスの政治によってその性格を決定的に変えられたものではなく、自由民主主義国家の法体系と矛盾しない」として、ナチス版175条の存続を合憲と判断しています。
戦後の民主国家がこの判断を下したという事実、けっこう重いですよね。
1968年|東ドイツでの175条削除
東ドイツでは支配政党SED(ドイツ社会主義統一党)の前身であるドイツ共産党が、もともと175条に反対の立場を取っていました。
1957年には事実上の運用停止が始まり、1968年7月1日には新たな刑法典が採択されて、ついに175条そのものが削除されたんです。
ただし、新刑法には§151という後継条文が置かれていて、成人と18歳未満の同性間性行為については引き続き処罰対象とされていました。
この§151が完全に廃止されたのは1988年(施行は1989年5月30日)のことで、東ドイツの刑法から同性愛に関する記述が完全に消えるまでには、さらに20年が必要だったんですよね。
1969年・1973年|西ドイツでの段階的改正
一方の西ドイツでも、1968年の学生運動やストーンウォール事件(1969年)など世界的な人権意識の高まりを背景に、1969年に大改正が行われました。
これにより、合意のある成人男性同士の関係(21歳以上)は処罰対象から外れることになったんです。
さらに1973年の改正では同意年齢が18歳に引き下げられ、適用範囲はさらに縮小していきました。
ただし、条文そのものはまだ刑法典の中に残っていたんですよね。
1994年|東西統一後の完全撤廃
そして1994年3月10日。
東西ドイツ統一から約4年後、ようやく刑法175条はドイツ刑法典から完全に姿を消しました。
制定から実に123年、ヒルシュフェルトの廃止運動の開始から数えても約97年が経っていたことになります。
一つの差別的な法律を消し去るのに、これだけの時間がかかったという事実は、けっこう重く受け止めるべきだと思うんですよね。
ナチス期の刑法175条と同性愛者迫害の実態
ここからは、175条の歴史の中でも最も悲劇的だったナチス期について、もう少し詳しく見ていきます。
1935年改正で何が変わったのか
1935年の改正で最も決定的だったのは、「身体的な接触がなくても処罰できる」という運用が可能になったことです。
「みだらな行為」という曖昧な表現を採用したことで、同性愛を匂わせる仕草や視線、噂話までもが立件の根拠にされてしまうようになったんですよね。
つまり、実際に何かをしたかどうかではなく、「同性愛者らしい」と見なされた瞬間に逮捕される世界になっていったということです。
これがどれほど恐ろしいことか、想像するだけでも息が詰まる感じがします。
約10万人の逮捕と強制収容所送致の数字
ナチス政権下で、刑法175条によって逮捕された男性は約10万人に上ると言われています。
このうち約5万人が裁判で有罪判決を受け、さらに約1万人(諸説あり、5,000〜15,000人と推定されています)が強制収容所へ送られました。
そして強制労働や医学実験、さらには組織的な殺害によって、その多くが命を落としたとされています。
ユダヤ人迫害ほど大々的に語られることはありませんが、これも紛れもないホロコーストの一側面なんですよね。
ピンクトライアングルとは
強制収容所では、収容者を区別するために色つきの三角形の布(Winkel)が衣服に縫い付けられていました。
ユダヤ人は黄色、政治犯は赤、そして同性愛者の男性にはピンク色の三角形が割り当てられたんです。
これがいわゆる「ピンクトライアングル」と呼ばれるもので、収容所の階層構造の中で、ピンクトライアングルを付けられた人々は最下層に位置づけられていたと言われています。
ユダヤ人収容者からも、ナチスの看守からも、同じ収容者である政治犯からも蔑まれるという、二重三重の差別の対象だったんですよね。
そしてこのピンクトライアングルは、戦後しばらくしてから現代のLGBTQムーブメントにおいて「誇りのシンボル」として読み替えられ、いまではプライドの象徴として世界中で使われています。
迫害の印を誇りの印に変えていった当事者たちの歩み、これって本当に強い行為だと思うんです。
レズビアン女性が条文の対象外とされた理由
すでに少し触れましたが、刑法175条はその条文上、女性同士の関係を処罰対象に含めていませんでした。
これは女性の性愛が「真剣に検討するに値しない」とされていた、19世紀の家父長的な偏見が背景にあると言われています。
ただし「条文上の対象外」というだけで、女性同性愛者がナチス期に安全だったわけではまったくありません。
「反社会的分子」というカテゴリで強制収容所へ送られた女性の中には、同性愛を理由とした人も含まれていたとされています。
また、ナチスに併合されたオーストリアでは女性同性愛も処罰対象だったため、地域によって扱いが異なっていたんですよね。
法律の文言には現れない迫害があったという点も、忘れてはいけないところです。
なぜ刑法175条は戦後も40年以上残ったのか
さて、ここが個人的に一番伝えたいセクションなんです。
「ナチスの悪法」というイメージが強すぎて、多くの人が見落としているのが、戦後の西ドイツで175条が継続していた事実なんですよね。
西ドイツが「ナチス時代の条文」をそのまま継承した経緯
1949年に成立した西ドイツ(ドイツ連邦共和国)は、ナチスが残した法体系を見直す中で、多くの差別的な法律を改正・廃止していきました。
ところが175条と175a条については、なぜかナチス期の厳罰化された姿のまま温存されてしまったんです。
その背景には、戦後西ドイツの保守的な空気と、キリスト教倫理に根ざした「家族観」がありました。
さらに前述の通り、1957年には連邦憲法裁判所までもがこの存続を「合憲」と認めてしまったんですよね。
ナチスを否定したはずの民主国家が、その差別法だけは手放さなかった、というのはなんとも皮肉な話です。
東ドイツと西ドイツで異なった改正のスピード
興味深いのは、東西ドイツで175条への対応がまったく違ったことです。
東ドイツでは1957年から事実上の運用停止が始まり、1968年の新刑法採択で175条そのものが削除されました。
一方の西ドイツでは、本格的な改正は1969年まで待たなければならなかったんです。
東側のほうが先に同性愛を非犯罪化していた、という事実は意外に感じる人も多いのではないでしょうか。
戦後にも約5万人が新たに有罪判決を受けた事実
そして最も衝撃的なのが、戦後の西ドイツで新たに有罪判決を受けた男性の数なんです。
米国ホロコースト記念博物館の資料によれば、1945年から1969年の間に約10万人が刑法175条で摘発され、そのうち約5万人(推計5万9000人とする資料もあります)が有罪判決を受けたとされています。
これはナチス期の有罪判決数とほぼ同じ規模で、しかも「民主主義国家」を名乗る国の中で起きていたことなんですよね。
刑期はナチス期と比べると短くなり、数日や数週間の禁錮、あるいは罰金で済むケースもあったと言われていますが、人生を狂わされた人の数は決して少なくありません。
こうして見ると、刑法175条の被害は決して「ナチスだけの問題」ではなかったということが、はっきりとわかります。
1994年の完全撤廃に至るまでの市民運動と国際情勢
西ドイツでも、1969年と1973年の二段階の改正で適用範囲は徐々に縮小していきました。
とはいえ条文そのものが消えたのは、東西ドイツが統一された後の1994年3月10日のことなんです。
この最終的な廃止には、1980年代以降のLGBTQ権利運動、エイズ危機を経て社会的連帯が広がったこと、そして欧州レベルでの人権基準の高まりが影響したと言われています。
ヒルシュフェルトの廃止運動から数えると、約97年という気の遠くなるような時間が流れていたんですよね。
2002年・2017年|ドイツ政府による判決無効化と補償
廃止されたとはいえ、175条で有罪となった人々の前科がそれで消えるわけではありません。
ここからは、戦後ドイツが過去の判決とどう向き合ってきたのかを見ていきます。
2002年のナチス期判決無効化法
最初の大きな一歩は2002年に踏み出されました。
ドイツ連邦議会は、ナチス時代に刑法175条によって下された有罪判決を一括して無効とする法律を可決したんです。
ただし、この時点で対象となったのはあくまで「ナチス期の判決」のみで、戦後西ドイツで下された約5万人分の判決は手つかずのままでした。
戦後の判決を無効化することは「西ドイツの司法制度の正当性を否定すること」につながりかねない、という政治的な事情があったとされています。
ナチスの罪は認めても、自分たちの過ちは認めにくい、というのはどの国でも難しいテーマなんですよね。
2017年の戦後判決無効化と補償法
そして2017年6月22日、ようやくドイツ議会は戦後判決の無効化と補償を定める法案を可決しました。
これは、ドイツ刑法175条によって同性愛を理由に有罪判決を受けた男性約5万人の判決を無効とし、補償する内容の法案です。
具体的には、有罪判決を受けた男性たちには一律3000ユーロの補償金と、刑務所への収容期間に応じて年額1500ユーロの追加補償金が支払われることになりました。
法律の廃止からさらに23年、戦後70年以上が経ってからの決定です。
しかも、この時点で生存していた被害者は推定5000人ほどと言われていて、補償を受け取ることなく亡くなった人がほとんどだったんですよね。
ドイツ政府の謝罪と歴史的意義
この補償法の成立にあたり、ドイツ政府は刑法175条によって人生を奪われた人々に正式に謝罪しています。
戦後の民主国家としてドイツが犯した過ちを公式に認めた、という意味で、この出来事は非常に大きな歴史的意義を持つんですよね。
「過去と向き合う」というドイツの姿勢は、こうした地道な法整備の積み重ねによって支えられているんだなと、けっこう感心してしまいます。
今なお残る課題
もちろん、すべてが解決したわけではありません。
被害者の高齢化が進み、補償申請の手続きが複雑であること、そして同性愛者として有罪判決を受けたという過去を、いまさら公にしたくないと考える人が多いこと。
これらの理由から、補償の対象として認定された人の数は、想定よりもずっと少ないという情報があります。
法律ができたことと、実際に救済が届くことの間には、大きな隔たりがあるんですよね。
刑法175条を題材にした映画・書籍|さらに学びたい人へ
ここまで読んでくださった方の中には、もっと深く知りたいと感じている人もいるかもしれません。
そこで、刑法175条をテーマにしたおすすめの映画や書籍をいくつか紹介していきます。
ドキュメンタリー映画『ナチ刑法175条(Paragraph 175)』(2000年)
刑法175条を知るうえで、まず観てほしいのがこのドキュメンタリーです。
監督はロブ・エプスタインとジェフリー・フリードマンで、過去にも『ハーヴェイ・ミルク』『セルロイド・クローゼット』など同性愛をテーマにした作品を手がけてきたコンビなんです。
ナチス・ドイツ期に175条によって迫害された生存者たちの証言を中心に構成されていて、教科書では決して伝わらない当事者の声がそのまま記録されています。
日本では2024年3月23日から劇場公開されていて、いま改めて注目されている作品なんですよね。
劇映画『大いなる自由』(2021年)
2021年に公開されたオーストリア・ドイツ合作の劇映画で、監督はゼバスティアン・マイゼ、主演はフランツ・ロゴフスキです。
刑法175条によって何度も投獄されながら、それでも愛する自由を求め続けた一人の男性の20年以上にわたる人生を描いた作品なんです。
ナチス収容所を生き延びた直後にまた175条で逮捕される、という戦後ドイツの現実が静かに、しかし強烈に描かれていて、観終わった後にずっしりと重いものが残ります。
劇映画ならではの感情移入できる作りになっていて、ドキュメンタリーが少し重いと感じる人にはこちらから入るのもおすすめです。
書籍『ピンク・トライアングルの男たち』
ハインツ・ヘーガー(ヨーゼフ・コーホート)による回想録で、ピンクトライアングルを付けられた当事者自身が書いた数少ない記録のひとつとして知られています。
強制収容所での過酷な体験が一人称で語られていて、二次資料では絶対に得られない生々しさがあります。
当事者の「声」に直接触れたい人にとっては、欠かせない一冊だと思うんですよね。
関連作品『アイヒマンを追え! ナチスが最も畏れた男』(2015年)
刑法175条そのものを扱った作品ではありませんが、戦後西ドイツが「ナチスの過去」とどう向き合ったかを知るうえで非常に参考になる映画です。
戦後ドイツの司法がナチスの遺産をどう温存し、どう清算しようとしたか、という大きな文脈を理解するための一本としておすすめです。
ドイツ刑法175条に関するよくある質問(FAQ)
最後に、刑法175条についてよく聞かれる疑問をまとめておきます。
刑法175条はナチスが作った法律ですか?
いいえ、違います。
ドイツ刑法175条が制定されたのは1871年で、ナチスが政権を握る62年も前のことなんです。
ナチスはこの条文を「強化」して使ったのであって、ゼロから作り出したわけではありません。
この点を誤解している人がとても多いので、しっかり押さえておきたいポイントですよね。
女性同士の同性愛は対象だったのですか?
ドイツの条文上は対象外でした。
19世紀ドイツの偏見として「女性には能動的な性欲がない」と考えられていたため、レズビアンの存在自体が法律の視野に入っていなかったんです。
ただし、ナチス期には女性同性愛者も「反社会的分子」として収容所送りになった例があるとされていて、法律に書かれていない迫害は確かに存在していました。
また、ナチスに併合されたオーストリアでは女性同性愛も処罰対象だったため、扱いは地域によって異なっていたんですよね。
「175」という数字に現代的な意味はありますか?
実はあるんです。
ドイツでは長い間、同性愛者を指す俗語として「175s」という言葉が使われていました。
また、5月17日(17.5.)は「ゲイの日」と呼ばれていた時期もあり、現在でもこの日は「国際的な同性愛嫌悪・トランス嫌悪に反対する日(IDAHOT)」として世界各地で記念されています。
ちなみに5月17日が選ばれているのは、1990年5月17日にWHOが疾病分類から同性愛を削除したことが由来なんですよね。
日本の刑法に同様の条文はありますか?
現在の日本の刑法には、同性愛そのものを処罰する規定は存在しません。
明治時代の初期には「鶏姦律条例(けいかんりつじょうれい)」という男性同性愛を処罰する規定が一時的に存在しましたが、1882年(明治15年)の旧刑法施行とともに廃止されています。
この点で、日本は欧米諸国と比べると同性愛行為の法的処罰の歴史は短いと言われています。
ただし、これは「日本が進歩的だった」という話ではなく、当時の刑法立案に関わったボアソナードが「同性愛行為で処罰すべきは児童虐待のみ」と主張した結果だとされていて、近代的な人権意識から来たものではないんですよね。
今のドイツ刑法175条には何が書かれていますか?
1994年の改正以降、刑法175条という条文番号自体は使われていません。
現在のドイツ刑法では、未成年者保護に関する規定は別の条文に統合されていて、性的指向による差別的な処罰規定はもう存在しないんです。
「175」という番号が、ドイツ刑法から永久に消えた、ということなんですよね。
まとめ
ここまでドイツ刑法175条の歴史と影響について、詳しく見てきました。
この記事の重要ポイントを整理しておきますね。
ドイツ刑法175条の基本
- 1871年制定・1994年廃止、男性同性愛を罰した約120年続いた条文
- 制定したのはナチスではなく、ドイツ帝国成立時の立法
- 条文上の対象は男性間の性行為のみで、女性同士は対象外
ナチス期の悲劇
- 1935年に厳罰化され「みだらな行為」全般が対象に
- 約10万人が逮捕、約5万人が有罪、約1万人(5,000〜15,000人と推定)が強制収容所へ
- 識別章「ピンクトライアングル」は現在LGBTQプライドの象徴に
戦後の継続という見落とされがちな事実
- 西ドイツはナチス時代の条文をそのまま継承し、1957年には連邦憲法裁判所も合憲と判断
- 1945年から1969年の間に約10万人が摘発され、約5万人が有罪判決
- 東ドイツは1968年に175条を削除、後継条文§151も1988年に廃止された
現代の補償と向き合い
- 2002年にナチス期判決を無効化
- 2017年に戦後判決も無効化、一律3000ユーロの補償が決定
- 法律廃止から実に23年後、生存者は推定5000人ほど
ドイツ刑法175条の歴史をたどっていくと、「悪法は誰か特別な悪人が作るものではなく、ごく普通の社会の中で生まれ、生き延び、そして消えるのにも長い時間がかかる」ということが見えてくるんですよね。
数字としての「14万人」の向こう側には、一人ひとりの人生があったということ。
『ナチ刑法175条』や『大いなる自由』といった映画で当事者の声に触れてみると、教科書の数行では決して伝わらない「重さ」がきっと胸に届くはずです。
過去を知ることは、いまを生きる人たちの権利を考えるうえでの、確かな出発点になるんじゃないかと思います。
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